書籍「石照の庭」出版に向けたご挨拶
並びにクラウドファンディングのご依頼
1934(昭和9)年生まれ。終戦から青春時代が始まり、時代とともに広い田畑を少しづつ庭に変えていったひと、堀江洋伸の人生を、青年団活動、38豪雪、水害、ダム移転…と、この地で暮らした多くの人々の暮らしと重ねながら追う本を作りました。出雲地方に暮らす人々、特に昭和を味わった方々に、語り合っていただけるネタ本になることを願っております。書籍は郷土出版という形で、地域の記録として、書店、図書館等で手にとっていただけることを目指しておりますが、出版資金面で苦慮しております。皆様のご協力を、心よりお願いします。
石照庭園 堀江研次
文化のるつぼのような都会で楽しく過ごしていたのも束の間、わたくしは1995年に島根に帰郷しました。その年は1月の阪神淡路大震災、3月の地下鉄サリン事件と、バブルの残り香を瞬時に消し去るような大災害とテロが立て続けに起こるなか、地元ローカル紙に職を得て、取材、広告依頼、配達、配送と、およそ「新聞ってどうやって作るんだっけ?」をトコトン実地で教えていただいた……日々を過ごしました。綾小路きみまろさん、ではないですが、「あれから30年!」。その間のメディアと通信の変化の波は、わたくしの編集スキルを元のスタートラインに押し戻してしまい、今、わたくしに残っているのは、思い出深い、何人もの方々から教えていただいた「人生の味」でした。中年(ちゅうねん)、と言われる齢を迎え、ひるがえって、わたくしにはどんな味があるのだろう?と立ち止まりました。人に語って、「おいしいねえ」と思ってもらえる味があるのだろうか?わたくしのソンザイイギって???
この「四十代の自分探し」は、父母の人生を聴くことから始まり、またその縁のある人に聞いて事実確認をとり、やがて祖父母、その親、またその家族……とさかのぼってゆき、面的には、ふるさと、その山河、戦争…、たたらに象徴される江戸時代の産業、そして戦国の戦い、と、時空を超えて広がっていきました。いまその途中経過をまとめ、書籍という形で読んでいただくよう、制作しています。かつて本の編集を担当したことはあるのですが、いざ、自分で執筆となると、多くの時間と労力がかかるもの、と思い知らされました。
そして出版社・報光社のお力と、ご協力いただいた方々のご尽力により、出版にはあと1センチのところまでたどり着きました。この1センチが困難なものと覚悟しているところです。
「ジブンを探し」は、若者だけの特徴でしょうか?願わくばクラウドファンディングを通じたご協力を賜り、接著「石照の庭」を読んでいただいて、
「あのころ」
「ジブンはいなかったけど、あなたがいなければ確実にジブンにたどり着けなかった、あのころ
「あの場所」
の、時空の旅に出発してもらえれば、とてもうれしいのです。などと、気負いながら、しかし、しかし、あと一センチ、押しやってくださいませ。
心より、ご協力をお願い申し上げます。
石照庭園について
室町南北朝の時代に近江から出雲に移った堀江家。古い歴史をつむぎ、近代の荒波にもまれながらも、二十三代、堀江洋伸が二十代からコツコツと築庭していった庭を2000年より観光日本庭園として開園いたしました。園は水を生む背景の石王山も含めて、2ヘクタールに及びます。大池を囲む巨石の滝組みをめぐりながら、ひととき庭園文化を全身で浴びていただける空間を用意しています。
プロジェクトについて
2016年、著者の高齢になった堀江洋伸氏のインタビュー・ヒアリングから始まりました。松江からライター建岡さんに半年ほど何度も足を運んでいただき、当時は存命だった母・堀江澄子も一緒に音声テーブに収まって、膨大なテープ起こしをしていただきました。
執筆は母の逝去を経て、それをもとに2017年末から始まり、広島市、呉市、津和野町など関連地の取材と、年代の確認、書物や、特に戦後すぐの、新たな青年運動、教育運動など、ヒアリングに出てきた人々の確認に多くの時間を割いています。書籍は出雲市の出版社・報光社さんのお力を経て、また、協力いただいた古浦義己先生、交易場修先生に校正をいただいて、今2023年7月現在、六校まで仕上がっているところです。

昭和39年、赤川堤防決壊から立ち上がった文房具店仮店舗、まだまわりにがれきが見える
目指すこと
なぜプライベートな物語を広く読んでいただくのか?戦後、苦しかった時から、昭和元禄といわれるとき、また、世界のなかで日本の立ち位